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《Interview》佐々木拓大 / 《札幌スーパーギャグメッセンジャーズ》【白い馬に乗ったジャパニーズ《後編》】


 古着子供服を販売するショップ『クーパーズタウン』のオーナーであると同時に、お笑いグループ《札幌スーパーギャグメッセンジャーズ》の団長としての顔も併せ持ち、ライブやラジオのレギュラー番組など幅広く活躍する佐々木拓大。力強いフロンティアスピリットで未知なる大地を切り拓いてきた軌跡は、札幌を新たなフェーズへと導く道標となり、やがて次世代へと受け継がれていく…。伝説を紐解くロングインタビュー、堂々完結!





※この記事は2003年3月にインタビューされ、2010年に再編集したものです。


>それから日本へ戻られてどうされたんですか?

 オーストラリアを一周して帰ってきてからは、アメリカで毎年8月に開催されているハーレーの大きな祭典に行きたくて、名古屋へ行って石屋さんでバイトしながら渡米のためのお金を貯めてました。名古屋のハーレー屋お社長と兄貴と一緒に行ったんですけど、朝から晩までハーレー、ハーレー…想像を絶する感じでしたね。スタージス(※1)って、小っちゃい街なんですよ。北海道で例えると、それこそ美瑛町とかそれぐらいの街に、世界中からハーレー乗りが集まるんだから。もう訳がわかんない状態です。その時は車とバイクで行ったんだけど、その街へ近づいていく度にバイクがすごい増えていって、夜中じゅうずっと爆音が鳴り響いていて。いったい、いつ寝るんだよって…(笑)。それからまた、そのまんまひとりで3ヶ月ロサンゼルスに残って、クラブで働いていたんだけど、給料が安くて全然お金にならなくて、先輩の車で生活してて。シビックで。その頃に知り合った人が古着の卸しをやっていて、「こういうものを仕入れたら、それをオレが買い取るから」って。一番最初の古着の底辺のバイトしてましたね、帰国まで。

>古着との最初の出会いですね!その頃、あの“グレイシー柔術”の道場へ通われていたそうですね。
 飲み屋でバイトをしていたんだけど、その近所にたまたまグレイシーの道場があったの。それでやってみようかなって入ってみたら、普通に〈ホイス〉がいて。リングは無くて、マットを引いた部屋が3つくらいあって、そこで練習してたね。アジア人はオレひとり。その頃、家がなくて車で生活していたから、朝起きて、グレイシーのジムに行って練習して、そこでシャワーが浴びれたの。シャワー浴びてから、夜に飲み屋の仕事へ行って、仕事が終わったら車の中で寝るっていう生活だったの。ヤバかったですね〜、あの時は…。よくあんな暮らししてたな。

>道場はどんな雰囲気でしたか?
 昔、極真で空手を習っていたこともあるんだけど、日本って礼儀とか上下関係が厳しかったりするじゃない。アメリカだからね、縦社会が全然無いんだよね。フランクというか、適当というか。例えば、先生が来たら「おはようございます!」とかもないんだよね。「ハ〜イ♥」って感じだから。〈ホイス〉なんてすごい人で、半端じゃなく強いんだよ!でも、「ハ〜イ、タクオ!」みたいな感じだったもん。そこは日系人が多い街だったんだけど、近所に『やおはん』って日系人のスーパーがあるんだよね。そこに雑誌とかも売っていて、たまに買いに行くと、〈ホイス〉が『格闘技通信』を立ち読みしてたり(笑)。

>日本へ帰られてからどうされたんですか?
 それで名古屋へ帰ると、オーストラリアにいた時に知り合った大阪の女の子が、“一世を風靡した”宗教に入ってて。大阪の友達から、その子をなんとかして欲しいって頼まれて。それで大阪へ行って、その道場で話を聞いて。個室に連れて行かれてビデオを観せられて、化学兵器の話とか言ってて。かなり勧誘されました。それは“あの”事件の前なんですけど。一泊してきましたよ、大阪本部…(笑)。結局、その子は出家して、その後事件に巻き込まれたらしいですが、今は普通の人に戻りましたのでご心配なく…(笑)。

>それから札幌へ戻られてどうされたんですか?
 アメリカから持ち帰ってきた古着を〈カズヒロ〉(※2)とフリマで売って生活していました。でも、全然ちゃんとしてなくて、アメリカから持ってきた物も売れると商品が無くなっちゃうじゃないですか。仕入れをしなくちゃいけないから、開店前に他の出品者の商品を売ってもらって。そこで200円で買った物を、2,000円で売ったり(笑)。無茶苦茶だったな。それで各地のフリマを転々としてね、〈カズヒロ〉とふたりで。〈カズヒロ〉の商売の話術はあそこで育った感じですね。

>〈カズヒロ〉さんとはいつ知り合われたんですか?
 アイツと知り合ったのは、オレが20歳の頃ですね。〈カズヒロ〉と漫才をするようになったのはフリマをやっていた頃で、《下心ブラザーズ》ってコンビ名で、パーティーとかでカチカチの漫才して、オレがツッコミでやってましたね。すっかり立派になりましたね、彼は(笑)。

>話を戻しますが、それからどうされたんですか?
 フリマじゃやっぱり喰えないので、いろいろ建築関係のバイトをしていましたね。古着屋『ボンズ』の出張に付き合って、アメリカへ行かせてもらったりもしてました。年に1〜2回はアメリカへ行ってましたね。

>意外と優雅な生活ですね。
 オレが務めていた建築会社は、1ヶ月くらい休みをくれたんですよ。それで向こうで古着の卸しをやっている先輩の手伝いをしてましたね。その時に子供服の古着がちょろちょろ出てきて、それを〈クロ〉とかにお土産で持って帰ってきて。そしたら「こういうの札幌で売ってないよ!」って喜ばれて、アメリカの先輩と「じゃあ、やってみようか」って話になって。

>それが子ども服の古着屋『クーパーズタウン』のオープンへとつながっていくんですね。
 そうですね。もともとはオレの店じゃなくて、社長はアメリカにいる先輩でやってました。最初は子供服なんてまったく知らなくて、ただ漠然とかわいいっていうだけで仕入れてきてオープンさせたんだけど、やっぱり売れないんですよ。サイズが合わなかったり。そんなことも全然わからないで始めちゃったから、まったく売れなくて大変でした。そんなこんなしているうちに1年経っても売り上げが良くなくて、その先輩もアメリカでトラブルがあって大変で、辞めようって話になりまして。「でも、もしやっていきたいんだったら、やっていいよ」とありがたいお言葉をいただき、借金をこさえて独り立ちしました。

>今でこそ子ども服はすごく注目されていますが、当時はまだほとんど認知されていない時代ですよね。
 それまではオレひとりでやっていたんだけど、ひとりでやっていてもダメだと思って、女の子を入れてやりだしたんですが、その子が〈中野〉っていうんですけど、すごい頑張る子で。それから少しずつ売れるようになって、『4プラ』の2号店の話をもらって。ウチの店の従業員には本当に感謝していますね。ありがたいです。ウチの従業員がいなければ、《札ギャグ》を維持することは無理だったと思います。

>その《札ギャグ》を始められるきっかけについて聞かせてください。
 本当の最初は《チ○ポタクオ&マ○コ兄弟》(笑)。曲をやらないで、ほとんど喋ってましたからね。それから94年頃から〈カズヒロ〉とやっていた《下心ブラザーズ》の漫才。その1年後に友人の結婚式でコントをやろうと結成したのが《山鼻スーパーギャグメッセンジャーズ》で、それから〈アブ〉や〈エド〉とかが入ってきて、95年からビデオを撮ったり、ライブをやったりして《札幌スーパーギャグメッセンジャーズ》になりました。その時すでに「タクえもん」のコントをやっていたんですよ。そう考えるとも「タクえもん」のコントをやり始めてもう8年…(笑)!ヤバいですね。

>結成の間にいろんな出来事もあったのでは?
 1996年くらいからメンバーがそれぞれ仕事なり、結婚なりいろいろありまして、《札ギャグ》としての活動は遠ざかっていたんですけど、結婚式やイベントなんかで漫才と「ホワイトマン」(※3)だけは営業でずっとやっていました。そのうち〈ファミ〉(※4)とかもやりだしたから、コイツらも混ぜてやってみようかなと思ってまたやり始めて、現在頑張っているところです。

>テレビCMにも出演された「ホワイトマン」はインパクトがあって必ず盛り上がるネタですね。
 言葉を喋らないで、動きだけで見せる面白いものをやりたいなって考えてて、夜ひとりで河原へ行って、ビールを飲みながら思い付いたのが、パンツに合体する姿だったの。ひとつのパンツに3人入るっていうやつね。…コレだ!って思って、すぐに仲間を呼んで試したら、それがおっかしくてね。初期の頃ってまったく声を出さなかったんだけど、何回か営業をやっているうちに、ひとりのメンバーがネタを忘れてしまって、次はこのネタだよって説明をする時に、声を出しちゃいけないんだけど、声を出さなきゃ伝えられない状況があって、どうしようもなくてあの喋り方になったんですよ。そしたらそれが面白いって評判になって、それからずっとあの喋り方になりましたね。

>あくまで素人としての立ち位置にこだわられているのはなぜですか?
 …う〜ん、難しい質問ですね。例えば、《笑ハンティング》さん(※5)や《モリマン》さん(※6)を近くで見させてもらって、やっぱりコレが芸人さんなんだって思い知らされることがすごいあるんですよね。礼儀にしても、ものの考え方にしても。オレらが芸人として名乗るのなんて、もってのほかって感じで、とうてい言えないよね。ちょっと面白いおっさん達ってくくりだね、オレの中では。

>幼少の頃からお笑いとの関係が密接というか、面白いとか笑わせるという意識が強いように感じられます。
 小学校の頃って、そんなヤツばっかりだったんだわ。なんか常に笑かしてるというか。やっぱり《ドリフターズ》だったり、《ひょうきん族》だったりが流行っていたのもあって、小学校3年生くらいからずっとそういうことをやっていたんだよね。大喜利みたいなことをやっていたんだもん。きっとお笑いブームだったんだわ、山鼻地区で…(笑)。面白いヤツいたもんな。みんな面白いけどね、いまだに。

>自身にとってお笑いとは?
 しゃべっていて、ウケている時が一番気持ちいいんだよね。喜んでくれてるなって思うと。楽しいしね、人を笑わせることが。お笑いを常にやっていきたいというか、やっていくだろうなっていう感じかな。

>昨年は某テレビ局のニュース番組なんかでも特集されていましたが、今後の目標について聞かせてください。
 やっぱりテレビ番組に出られるようになりたいなっていうより、やってみたいですね。ライブを観にきてくれるのは《札ギャグ》を好きで来ていただける方が多いですけど、テレビの場合は好きな人も、嫌いな人も観てしまうわけじゃないですか。そこで、どれくらいの人から支持をしていただけるのかなって。でも、テレビだと難しいこともたくさんあるんでしょうね。

>テレビではどんな笑いを見せてくれるのか楽しみです。実現できるといいですね。
 誰か力を貸してください!お願いします!あと、CDとビデオ買って、お願い!

>真顔はやめてください!ところで話は変わりますが、「不良リーグ」という草野球のリーグもやられていますよね。
 はいはい、やっております。

>もともと野球はお好きだったんですか?
 いや〜、野球なんて子どもの頃にはまったく興味がなくてやっていなかったんですけど、1995年かな…アメリカにいた時にたまたま野茂選手の試合を観に行きまして。日本人の野茂選手が投げる一球一球に、アメリカの白人さん黒人さんが「わっ〜!」って盛り上がってて、野球ってすごいなって単純に感動したんですよ。それまで「野球なんかアホなヤツがやるスポーツだ!」なんて言い切っていたのに、帰ってきてすぐに仲間を集めて、「野球こそ男の人生の縮図だ!」なんて訳のわからないことを言いながらチームを作ったら、先輩の《カウンターアクション》(※7)系のチームや、同級生だった暴走族系のチームができたりとか、不良の野球チームが続々とできて。

>…絶対に対戦したくないです。
 このままリーグを作ろうって思って、「札幌不良リーグ」っていうのができました。今、8団体があって選手も140人くらいいるんですけど、毎年盛り上がってますね。毎年、春からトーナメントで競って、優勝したらでっかいカップがもらえて。個人データがオレのところへ流れてきて、全部コンピュータに打ち込むんですよ。誰が一番、打点が高いとか、盗塁をしてるとか全部データが出て、毎年表彰されるの。年々、不良リーグのレベルも高くなって、そんなに差のない8チームが接戦してる。ウチのチームは毎年強豪と言われながらも、いつも2位・3位・4位どまり…(笑)。優勝カップがオレの手元にあったのは、この6年間で買いに行った時だけですからね(笑)。

>そして、年末の恒例行事「不良忘年会」はいつ頃から始められたんですか?
 最初に始めたのは94年で、いろんな業界に友達がいて、そのトップを集めてそういう場で和めると面白い話ができて、いろいろと膨らんでいくかなって。人と人との接点ができるから、人を紹介して面白いことをやろうってなったのが始まりですね。昔はチーマーだったらチーマー、パンクだったらパンクって分裂して、交わることがなかったんですけど、ちょうどオレがいろんな人を知っていたから、つなげることができて。一番最初の「不良忘年会」はおっかない雰囲気でしたね。コワい人しかいなくて。今みたいな、あんな和気あいあいとした感じじゃなくて、ちょっとピリピリしてて。始めて2〜3年は絶対にケンカもありましたね。みなさん年を重ねて、だんだん柔らかくなってきて、現在に至っていますね。

>揃いも揃った不良…いや、様々な業界の第一線で活躍されている方々が勢揃いで、本当に緊張しっぱなしでした。会費からひとり500円、そしてカンパを加えた懸賞金を賭けて行われるジャンケン大会もすごい盛り上がりでした。
 動く金額がすごいですよね。昔はひとり500円ずつを集めて、100人で5万円くらいだったんだけど、それがだんだんと増えていって、こないだなんて総額65万円だからね。みんなもう目を剥いてジャンケンしてますもんね。来年で10年が経つから、オレはそろそろ引退して、あとは〈泰三〉にでも任せようかなって(笑)。

>これでインタビューは終了です。長々とお付き合い、ありがとうございました!
 いえいえ、こちらこそありがとうございました。楽しかったです、撮影とかいろいろ。でも、本当にこんな企画アリなんですか?

>アリです。個人的に面白ければ。
 いい加減だな〜(笑)。


※1 スタージス
アメリカ合衆国サウスダコタ州の小さな街。バイクのハーレーダビッドソンに乗るライダー達の聖地となっており、毎年8月に「モーターサイクル・ラリー」という祭典が開催され、世界各地から約100万台以上のハーレーが集まる。

※2 カズヒロマン
佐々木拓大が唯一認めた自称・舎弟であり、札ギャグのメンバー。自身が手掛ける『Discover Leg Style』にて、アメリカ・イギリスを中心としたインポートタイツ・ストッキングの輸入販売と、個性を追及したオリジナルブランド『MAM』の展開をしている。
URL http://www.discoverlegstyle.com

※3 ホワイトマン
全裸に白塗りをした男性数名がひとつのパンツに入る合体下ネタコント。今ならまだ「youtube」で観れちゃいます!
URL http://www.youtube.com/watch?v=OboSOwZL7K0

※4 ファミ
札ギャグのメンバー。肉食。

※5 笑ハンティング
1994年に結成。中田ゆうじと宮本たつみからなる漫才コンビ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー札幌事務所所属。

※6 モリマン
1994年に結成。ホルスタイン・モリ夫種馬マンからなるお笑いコンビ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー札幌事務所所属。

※7 カウンターアクション
札幌ハードコアの重鎮スラングのKOがオーナーを務める札幌のライブハウス。
URL http://www.klubcounteraction.com


text pilot publishing/photograph kei furuse(studio k2)
April,2010



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