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美術館『小川原脩記念美術館』(虻田郡)


住所 北海道虻田郡倶知安町6条東7丁目1
営業時間 10:00〜17:00
定休日 毎週火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日休館) / 展示替え期間不定休 / 年末年始(12月31日〜1月3日)
電話 0136-21-4141
料金 大人 ¥500 / 高校生 ¥300 / 小中学生 ¥100
※ 観覧当日に限り、当美術館半券で『倶知安風土館』も観覧可
ウェブサイト http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/town/somoa/index.jsp

東京で活躍した後、チベット・中国・インドで新境地を開いたのち、生まれ故郷の倶知安町にて創作活動を続けた小川原脩を記念して作られた美術館。羊蹄山に面した小高い丘の上にたたずみ、小川原脩の諸作品を収蔵・展示。2つの展示室と、仕切りのない映像ギャラリーやホールというシンプルな構成。第1展示室は小川原作品を常設展示。第2展示室は企画展示で、その時々のテーマに沿って小川原作品から地域縁の画家の作品までを幅広く展示している。

小川原 脩(1911−2002)
1911年、虻田郡倶知安町(旧倶知安村)生まれ。旧制倶知安中(現・倶知安高校)卒業後、東京美術学校(現・東京芸大)西洋画科入学。在学中に帝展入選。卒業後、資生堂ギャラリー、三越ホールなどで個展を開催。福沢一郎らと知り合い、美術文化協会創立に関与。前衛画家としての道を歩みはじめるが、太平洋戦争を機に進取の道を断念。戦後、郷里倶知安町へ戻り、以後60数年間この土地を離れることなく創作活動に専念。全道美術協会(全道展)創立に参加。60歳を越えてから訪れた中国、チベット、インドで創作への新境地を開拓。






インタビュー(August,2007)
矢吹 俊男 / 『小河原記念美術館』館長

>まずは美術館の紹介をお願いします。

まず、建物そのものが風景に溶け込んでいることです。もともと小河原先生からは派手な建物にしろとおっしゃっていたのですが、羊蹄山を背景にする前提がありましたので、人間が作るものですから、自然の造形に対してはシンプルにしませんかとお願いしたら、始めはかなり抵抗されましたが突然単純でいいと仰ったんです。逆に、単純とは何だと問いかけられたんです。設計者も含めて悩みましたね…(笑)。小河原先生は中国やチベットへ行かれてから、色彩がそれまでの作品よりもやわらかくあたたかくなっていくんです。土の香りがするような色合いが入ってきていましたので、この建物は地面と同化するイメージにしましょうと提案したんです。だから、あまり高い部分を作らないで、ほぼ平家建てで羊蹄山を望むような建物にしたんです。始めの頃は作品がなんとなく展示室の壁から浮き上がっているような感じでしたが、今年で8年目を迎えだんだんと馴染んできて、作品と建物自体のイメージがようやく重なってきたような気がしています。

>作家自らが計画段階から参加されていたのですね。
自分の作品に対してものすごく厳しい視線をお持ちでしたから、美術館の基本計画にしてもなんにしても、良いとは素直に言っていただけませんでしたね。絵描きとしての自分の考えも当然あるんですよね。わたしたちと合わないところがあると、よく怒鳴られることがありました。すると今までのものが完全に崩れてしまうわけではありませんが、一旦止まるんです。それでお互いの主張を突き合わせたのですが、妥協することはありませんでした。ある時、突然曲線が欲しいと言い出したんです。チベットの寺院へ行かれてエンタシスというギリシャ建築の柱を見られたんですね。すでに完成も間近でしたがいろいろと試行錯誤をして、第2展示室の一部の床に曲線を付けたんです。そしたら、見えない所の配慮がいいなって、それで終わっちゃったんです…(笑)。ただ、角張った建物の中に曲線が入ることによって建物に変化が出てやわらかさが出る、そうおっしゃっていましたね。

>美術館の見どころについて聞かせてください。
すべてにおいて単純なスタイルでやっていますから、奇をてらっていないところですね。時系列で本人の生い立ちがどうのではなく、その時代にどういう絵を描いていたかをみなさんに知っていただきたいですね。

>亡くなられるまで60数年この土地に住まわれていたそうですが、地元に対する愛着が強かったのでしょうか?
戦争がなかったら本当は東京でずっと描きたかったと思います。ただ、自分の中にある風景というのはお持ちでしたから、70歳を過ぎてから行かれたチベットにしても、向こうの風景と地元の風景が重なってくるんですよ。ですから、このニセコの山というのは、戦前戦後を通じて必ずどこかで作品に入ってきます。故郷はあたたかく迎えてくれたとおっしゃっていましたから。

>時代によって変化する作風がとても興味深いです。
絵の世界にはその時代にいろんな思想や運動が入ってきますよね。それを若い人達が自分のスタイルにしたり、時代を作ったりしていくのですが、小河原も挑戦するタイプなんです。ピカソやダリといった前衛作家に傾倒していくんです。それは、抽象や具象という言葉には当てはまらないような気がします。新しい運動を自分の中に取り入れようとする、その時には次のことをもう考えているんです。一度戻ってみるんです。それを繰り返した中で、根底は変わらないのですが、描き方は変化していきます。例えば、ある時代は人はほとんど登場してこないんです。人とは距離をおいて付き合わなければいけない、裏切られることもある、動物のほうが好きだという考えが20年間も続くんです。その時はほとんど馬と犬と白鳥しか描いていません。その後になると、いろんな動物や人が出てくるのですが、その人というのが家族なんですよね。ふっきれたというか、そこに入っているんですよね。あまり表情は書き込まれていませんが、優しいあたたかさのある表現をしています。人を本当に好きになったのかはわかりませんが、とても大きな変化だと思います。

>では最後に、美術館を通じて感じて欲しいことは?
単純に言うと小河原の全てなのですが、絵が描きたい人が描けばいい、この美術館へ来て自分も描いてみたいという気になれば幸せだと仰っていました。好きな作品、嫌いな作品、どこから入っても構いません。この作家がどのように変化して、どこへ戻ろうとしていたのか。立ち止まって考えてもいいのですが、次のことを考えるのが大切なんです。よくおっしゃっていたのは、80代で20代の頃に戻っている。けれど、80代の自分が戻っても、20代の絵を直すことはできない。でも、その時の気持ちを持って次へ行きたい。だから、次のことを考えようと。過去をどんど振り返って今あるべき姿、次にどうするべきかを考えていたんです。この美術館の展示室へ始めに入るととても広く感じると思います。でも、作品を観終えてロビーへ戻って羊蹄山を眺めると、作品のことをしばし忘れるんです。改めて羊蹄山の大きさに気付かされるんです。どこかに小河原先生の作品が残っていて、お帰りになる時には羊蹄山の景色が体いっぱいに入っている、それでいいと思います。


text Pilot Publishing / photograph Kei Furuse(studio k2)
August,2007




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